怒りは、悪であり罪である
「怒りは、悪であり罪である」
これは、この私が発見をした宇宙の絶対的な真理です。
例えば、最も悪いと言われている犯罪に、
「殺人」というものがありますが、
この殺人という罪を犯す人の心の中、内面には、
必ず、怒りというものがあるはずだと、私は、考えます。
全く、怒りという感情がない状態において、
人は人を殺すことなど出来ないと、思います。
(但し、人殺しを職業としている人達は除いて)
まず、怒りがあって、
そして、その怒りが恨みや憎しみへと変化をして、
そして、それが、人に対する殺意へと変化をしていくのです。
つまりは、怒りがなかったならば、
人が人を殺すという殺人事件は起こらないということになるのです。
他の殺人以外の凶悪犯罪、例えば、強盗なども、
怒りがなかったならば、それは、起こり得ないのではないかと考えます。
例えば、売春や麻薬などの一見したならば、
殺人、強盗等と比べたならば比較的穏やかそうに見える犯罪にしても、
それを行う人達の内面に、怒りという感情が皆無であったとしたならば、
それは絶対に起こり得ないと、私は、考えます。
つまり、
怒りは、悪の最小単位、
怒りは、罪の最小単位、
であると言えると思います。
最初は、人間の内面のほんの小さな怒りが引き金になって、
それらの凶悪犯罪は、引き起こされるのです。
例えば、生まれてから1度も、怒ったことがない人間がいたとして、
その人間が、人殺しを行おうとするでしょうか?
いいえ。
1度も怒ったことがない人間には、
人を殺すなどといったことは、絶対に、出来るわけがないのであります。
それから、例えば、生まれてから1度も、怒ったことがない人間がいたとして、
その人間が、強盗を行おうとするでしょうか?
いいえ。
1度も怒ったことがない人間には、
人の物を力づくで盗み取るなどといったことは、出来るわけがないのであります。
強盗に限らず、盗みを行うというのは、欠乏があるからなのです。
欠乏がなくて満たされていたとしたならば、絶対に、人の物を盗んだりはしないのです。
欠乏は、人間の怒りによってもたらされるものなのです。
それから、例えば、生まれてから1度も、怒ったことがない女性がいたとして、
その女性が、売春を行おうとするでしょうか?
いいえ。
1度も怒ったことがない女性が、
見ず知らずの好きでもない、愛してもいない男性に対して、
自分の体を売るなどということは、出来るわけがないのであります。
売春を行う女性も、盗みを働く人達と同じで、
人生において、何らかの欠乏があるのです。
怒りがなかったならば、欠乏は、決して、生じてはこないのです。
それから、例えば、生まれてから1度も、怒ったことがない人間がいたとして、
その人間が、麻薬に手を出すでしょうか?
いいえ。
1度も怒ったことがない人間が、
麻薬のような危険で、非合法な薬物に手を出すわけがないのであります。
麻薬に手を出す人間というのは、この世の中に対して、人生に対して、
不平不満が、必ず、あるのです。
不平不満というものは、人間の怒りによって、もたらされるものなのです。
今までの人達は、
殺人は、悪いこと、
強盗は、悪いこと、
売春は、悪いこと、
麻薬は、悪いこと、
という認識は、もちろん、ありましたが、
しかし、それらの犯罪の中の、奥深くに隠されている
本当の意味での悪については、
その真実は、全くわかってはいなかったのです。
けれども、私は、
その殺人や強盗、売春、麻薬、その他ありとあらゆる凶悪犯罪の内奥に潜む
本当の意味での罪悪について、
その真実を解き明かすことに、初めて、成功をしたのです。
怒りこそが、悪なのです。
怒りこそが、罪なのです。
しかし、現代のこの世の中においては、
「怒りは、悪であり罪である」という真理、概念は、
全く、存在していないのです。
全く、誰も、そのようなことは思ってもいないはずです。
いや、ほとんどの人は、考えつきもしないことでしょう。
ですから、例えば、会社でも、政治家でも、芸能人でも、
何かの不祥事を起こした時には、
マスコミをはじめとして、一般大衆の人達は、
その不祥事を起こした人に対して、
一斉に、怒りの声を上げるのです。
しかし、よく考えてみてください。
不祥事は、不祥事を起こした人間は、
もちろん、悪いということは言うまでもないことなのですが、
その悪いことを行った人間に対して、
善(愛)ではなくて、悪(怒り)をぶちまけて、
悪(怒り)によって、徹底的に、糾弾していくというのは、
悪に対して悪というやり方ではありますが、
けれども、私から言わせたならば、
「どっちが本当に悪いのかがわからなくなってくる」
と言えるのです。
つまりは、現代のこの世の中は、
現代に生きている人々は、(もちろん、現代だけではなくて大昔からそうなのですが)
怒りの悪、怒りの罪を犯し続けてきている、
いわば、この世の中は、悪人、罪人だらけだということになるのです。
正義の名のもとに、公然と、怒る人々。
正義と善の名のもとに、堂々と、何の躊躇もなく、
怒りの罪を犯し続ける人々。
私は、これらの大いなる矛盾を目の当たりにして、
茫然としてしまうしかないのです。
怒りは、悪であり、罪であるという真理を、
何とか、この世の中の人々に、
わかって頂きたい、
理解して頂きたいと、
私は、心の奥底から、願うのであります。
「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。
わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。
わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、
世の誤りを明らかにする。」
ヨハネによる福音書第16章7節〜8節
合 掌
ほんの僅かな小さな怒りも、物凄い罪悪
キリスト教には、「七つの大罪」と言われているものがあります。
その大罪とは、傲慢、嫉妬、憤怒(wrath)、怠惰、強欲、暴食、色欲。
キリスト教でも、怒りは罪悪で、
英語では、wrath と呼ばれる怒り(憤怒)を、罪悪であるとしているようです。
wrathとは、復讐を望むほどの激しい怒りをさし、
激怒、憤怒などと訳されることが多いです。
ちなみに、ロングマン英英辞典には、
このwrathのことは、extreme anger と載っておりました。
しかし、アイアラシの法則は、キリスト教とは異なって、
wrath(激怒、憤怒)のような激しい怒りだけではなくて、
ほんの僅かな小さな些細な怒りであったとしても、
物凄い罪悪であると説くのです。
実際、表面には全く出さない、全く出ない、
内面だけのほんの少しの「イラッ」も、
物凄い罪悪なのです。
ほんの小さなあなたの内面の「イラッ」を、
極限まで少なくして、無くしていきなさいというのが、
アイアラシの法則の教えなのです。
ほんの小さなあなたの内面の「イラッ」を、
極限まで少なくして、無くしていく努力をしていきなさいと、
アイアラシの法則は教えるのです。
ほんの小さな「イラッ」を、無くしていく努力をしていくならば、
あなたは、少しずつ、神(至高のお方)に近づいていくことが出来るのです。
ほんの小さな「イラッ」を、無くしていく努力をしていくならば、
あなたは、ドンドンと、知恵深くなっていくことでしょう。
ほんの小さな「イラッ」を、無くしていく努力をしていくならば、
あなたは、次第に、賢くなっていくことでしょう。
ほんの小さな「イラッ」を、無くしていく努力をしていくならば、
あなたは、だんだんと、愛情深くなっていくことでしょう。
そして、人間は、自分の内面のほんの小さな「イラッ」を全て捨て去った時に、
自分の内面の怒りを全て捨て去った時に、
はじめて、神(至高のお方)に立ち返ったということができるのです。
※至高のお方ー宇宙の至上神・天地の偉大なる創造者・Supremeのこと。
クリシュナは、親しみと尊敬の気持ちを込めて、神様のことをこのように呼びます。
主・天の父・ヤハウェ・アッラーも同義です。
合 掌
怒りは、悪である
「怒りは、悪であり、罪である」
というのは、私が説いた
この宇宙の絶対的な真理です。
しかし、世間一般においては、
このようなことを言う人は、
ほとんどおりません。
世間においては、
親や学校の教師や会社の上司や
いわゆる目上と呼ばれるような人達は、
このようなことは、普通、絶対に言いません。
それは、一体、どうしてなのでしょうか?
それは、多くの目上と呼ばれるような人達は、
自ら率先して、この悪を行ってきているからなのです。
多くの目上と呼ばれるような人達は、
自ら率先して、この罪を犯してきているからなのです。
例えば、子供達が悪い事をしたならば、
親や学校の教師は、たいてい、子供達を叱ります。
親や学校の教師は、その子供達に対して、
怒ったり、怒鳴ったりします。
(最近は少なくなりましたが、
体罰や暴力も、時にはあることでしょう。)
このやり方は、悪に対して悪といったやり方です。
毒をもって毒を制するといったやり方です。
このやり方は、即効性はあります。
子供達は、たちまち、大人達の言うことを聞くようになることでしょう。
しかし、子供達は、どうして、それが悪いことなのかといった肝心な理由について
ほとんど、何も学ぶことはないのです。
本当の意味で、子供達に必要なものは、
それが、どうして悪いことなのかといったことについての
正しい理解なのです。
ですから、このやり方は、間違っているのです。
たとえ時間はかかったとしても、
きちんとした正しい理解へと導いてあげることが、
本当の意味での大人達の役目なのです。
そして、悪に対して悪(怒り)というやり方ではなくて、
悪に対して善(愛)というやり方を行うべきなのです。
悪に対して怒りという悪を示すのではなくて、
悪に対しては、愛という善を示してあげて、
そして、子供達を、善の方向へと導いてあげるべきなのです。
悪に対して、悪で返しては、絶対に、いけません。
それは、子供達に対してではない場合にも。
悪に対して、悪を返すような愚かなことはしないように。
悪に対しては、善で。
悪に対しては、愛で。
悪に対しては、思いやりで、
悪に対しては、優しさで。
残念なことに、この世の中には、
良い人達ばかりがいるわけではありません。
例えば、人を殺したりするような悪い人間(殺人者)がいることは、
事実です。
しかし、その殺人者が、歩んできた人生を辿っていったならば、
子供の頃には、必ず、大人達が与えてきた大いなる悪(怒り)が
存在をしているのです。
例えば、秋葉原無差別殺傷事件の加藤 智大被告。
もし、彼が、子供の頃に、親による怒り(悪)をあまり受けないで、
親による愛(善)を多く受けて育ってきたとしたならば、
あの悲惨な事件は、絶対に、起こらなかったことでしょう。
もちろん、幼少の頃に、どんなに、親の悪を受けて、
どんなに、親の愛を受けないで、育ってきたとしても、
人を殺していいわけはありませんが。
でも、加藤被告が、もう少し愛情の深い親によって育てられたとしたならば、
あのような事件は起こさなかったことでしょう。
人間として成長を遂げている大人が、
子供達に、怒り(悪)を与えて、
愛(善)を与えないということは、
絶対に、あってはいけないことなのです。
この世の中の大人達(目上と呼ばれる人達)は、
自ら率先して、
自らが模範となって、
怒りという悪を犯さないで、
愛という善を行っていくべきなのです。
合 掌