究極的な善悪の基準




この世の中には、様々な善悪の基準が、存在をしております。

例えば、私が説いた
「怒り、憎しみ、恨みは、悪。
愛、慈悲、許し、思いやり、優しさは、善。」
というのも、1つの善悪の基準です。

それから、「悟りを開くための五戒」の中にも、入っておりますが、
「法律や社会的なルールを順守することが、善。
法律や社会的なルールを守らないことが、悪。」
というのも、1つの善悪の基準だと思います。

しかし、これらの善悪の基準は、必ずしも、
絶対的な基準とは言えないのであります。

例えば、法律を守ることが善であるとしたならば、
法律に違反をしなかったならば悪とは呼べませんから、
その法律の網をかいくぐって、
様々な悪事を行うことも、可能ではあるからです。

それから、愛することが善であるとは言っても、
これも、いつでも、必ずしも、
その愛が善であるとは言えないケースもあると思います。
(だからこそ、神(至高のお方)を愛するという最高の善を行い、
神よりも人や物を余計に愛するという罪を犯さないようにしていくことが、
重要なのですが。)



そこで、私は、究極的な、絶対的な、
善悪の基準を、示したいと思います。



究極的な善悪の基準とは、
絶対的な善悪の基準とは、
神(至高のお方)の言うこと、意志に従うことが、善。
神(至高のお方)の言うこと、意志に従わないことが、悪。



物事を突き詰めていったならば、結局は、
これ以外には、絶対的な善悪の基準はないのであります。

神の言う通りに、神の意志の通りに生きていくことが、善なる生き方。
神の言うこと、神の意志に従わないで、逆らって生きていくことが、邪悪な生き方。
http//aiarashi2004-hp.web.infoseek.co.jp/willofgod1.html



ですから、アブラハムが、息子のイサクを殺そうとしたのは、
善なる行いだったということになるのです。
http://aiarashi2004-hp.web.infoseek.co.jp/genesis22.html
もし、アブラハムが、あの時、
神の意志に逆らって、息子を殺そうとしなかったとしたならば、
アブラハムは、大いなる悪を行ってしまったことになるのです。
もちろん、普通であったならば、
自分の息子を殺そうとすること、人を殺そうとすることは、
完全なる悪です。
そして、誤解のないように言っておきますが
通常は、神は、このようなことは絶対に、
人に、命じたりはしないのです。
もちろん、私にも、このようなことは、絶対に言いません。
アブラハムにだからこそ、神は、
このようなことを言ったのだと思います。
アブラハムを試すために、神は、
このような無理難題を押し付けたのだと思います。
しかし、アブラハムは、神が押し付けたこの無理難題に対して、
何の戸惑いもなく、神の期待に応えて、
見事に、神(至高のお方)の意志に、完全に聞き従ったのです。
アブラハムは、本当に、信仰の鑑であると言えます。

アブラハムこそが、本物の「善の人」であると言えるのです。


※至高のお方ー宇宙の至上神・天地の偉大なる創造主・Supremeのこと。
クリシュナは、親しみと尊敬の気持ちを込めて、神様のことをこのように呼びます。
主・天の父・ヤハウェ・アッラーも同義です。




合   掌


















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